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豊臣秀吉が好き。 そしてその肖像画2点。
左の絵の裏に「これがよく似て候」と記してあると聞いた。
どちらも同じ様な雰囲気の絵で、やはり信長が”ハリネズミ”と呼んだのが分かるような気がする。
この秀吉が日本の頂点を制するに、何があったのだろうと考えるのも又楽しい。
現代で言うならば、ヤンチャ坊主で中卒で1~2年を浜松の町工場で働き、その後岐阜の織田株式会社へ入社。
現場の班長、係長を経て4~5年で現場の課長となる。
その2~3年後には、部長から末席の常務となり、有名な”墨股城”を築き、5人いる末席専務へと昇進。
常務の時、長浜へ下請け会社の木下有限会社を設立し女房の”ねね”の身内の従業員を雇う。(この時の子飼いが「加藤清正」や「福嶋正則」である)
親会社の社長信長亡き後、本社の実権を巡って争うも、巧みな戦略&攻撃で跡目となる。
言うならば家柄も教養もない秀吉(藤吉郎)が、居並ぶ武将をどうやって蹴散らして行ったのか、またどうやって人の心を掌握出来たのかを考えるのも楽しい。
普通なら出世の途中で足を引っ張られるのがオチではないのだろうか・・・。
(まぁ、冬のアルプスを越え、徳川家康に泣き付きに行った佐々正成のような武将もいるが、こんなのがワンサカいても不思議ではないのでは?と思う)
秀頼が生まれてから、人が変わったような行政をしたと言うが、天下の大会社豊臣株式会社になって、総務部長として「石田三成」を招き入れた頃から現場との関係がギクシャクし始めたようだ・・・。現に清正と福島は、関が原の戦いで東軍(家康)に付いた。この辺りの心理も資料など交えて読んでみると、改めて興味深いし又興味は尽きない。
辞世の句も、その人生を全て表わしたようで好き。
『露と落ち 露と消えにし 我が身かな
浪花のことも 夢のまた夢』
何をしたかではなく、どんな人間だったかを見つけ出す歴史の旅も又楽しい。
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