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明治の初期、廃城(取り壊し)になる前の吉田城。
明治新政府の廃城令で取り壊された城が多々ある。
吉田城もその一つ。
元々牛久保城主の「牧野古伯」が作った城(当時は今橋城)であった。
牛久保で生まれ育ち、この「牧野古伯」を祭った「うなごうじ祭り」に小学校から23歳まで皆勤参加していたチョコボとしては、この吉田城は、”オラが村の大将が造ったお城”であり、より身近なステータスシンボルだった。
今川支配から徳川家康に代わり、明治まで藩主は代わって来た。(池田、本多、水野、松平など)
取り壊しの折、本丸は焼けてしまってもう無かったんだよ・・・。と言う話を聞いた事があった。
先日この古写真を見て、何だか嬉しくなった。
今では再建されたコンクリート製の隅櫓がポツリと建っているだけだが、この写真には、立派なお城の体をなしている姿が写っている。
廃城令の基になっている発想が、反政府軍がこれらの城に篭城したりすると堅固な基地になってしまうから・・・と言う理由だったそうだ。。
廃城の難を逃れた城は、頑固な反対論者がいたり、取り壊しに莫大な費用が掛かったりしたために残されたそうである。(その後、ほとんどの城が、空襲やら火災で無くなってしまい、再建された物がほとんどですが・・・。)
最近行っていない城廻り・・・・。
又、マニアの血が騒ぎ出したな・・・・。。
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COMMENT
Re:はじめまして♪
Chiro Lian様
初めまして。ようこそいらっしゃいました。
古いブログも見て下さったんですね。
ありがとうございます。
え~~っと、YAHOOで「吉田城」→画像と入れると2~3番目くらいにこの画像が出て来ますよ。
一度お試しあれ。
初めまして。ようこそいらっしゃいました。
古いブログも見て下さったんですね。
ありがとうございます。
え~~っと、YAHOOで「吉田城」→画像と入れると2~3番目くらいにこの画像が出て来ますよ。
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