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この肖像画、「安国寺恵瓊」
黒田官兵衛のNHKドラマは見なかったが、必ず秀吉関係のドラマには出て来る人物。
そもそも安芸武田の血を引く名家の出と言われたそうだが、秀吉の毛利攻めに於いて毛利方の外交役を務め、その後秀吉によって召し抱えられ、僧侶の立場にもかかわらず、6万石の大名として名を上げた。
関ヶ原の戦いでは西軍に付き、その後四条ヶ原で、さらし首となった。
それより有名なのが、信長、秀吉の事を手紙にて予言したと言う事である。
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
これは、「信長の代は、5年でも3年でも続くであろう。もしかしたら公家の立場になるかも知れない。しかし、ひょっとしたら、足元をすくわれ転んでしまうような事があるかも知れない・・・そして、次に続く藤吉郎は、大した男に見える・・・」との解釈がおおよその意見だった。
この解釈に待ったをかけた学者がいる。
信長の件は良いが、藤吉郎さりとて八の者に・・・の八は、当時、田舎者、下賤と言う意味が含まれていたと言うのだ。
要するに、「次に続く藤吉郎と言う男、所詮下賤の出であるから・・・」と言う意味だったと主張した。
よしんば褒めるにしたら、「さりとて」と言う言葉が何を意味するのか分かるだろう・・・「しかしながら」とか「所詮」と言う意味であると言う。
褒め言葉に、「さりとて」は使わないと言うのだ。
なるほど・・・
調べてみると、この安国寺恵瓊の手紙の内容を、”秀吉賞賛の手紙である”と紹介したのは江戸時代に作られた「太閤記」の中での話であった。
その学者、もっともっと真実を追求して行くと言っていたが、その後どうなったか、調べてみたい話ではある・・・。
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